ドラマ版「火垂るの墓」

なぜこの時期に放映するのか疑問だったが、ひょっとしたら他の同系番組に紛れなく流せる時期ということで、あえて中途半端な時期を狙ってきたのかもしれない。今年の夏は特に戦争物の番組が多く、時期的にはまもなく年末になってしまうから、神妙な戦争ドラマを流すにはこの時期が可もなく不可もなくといったところなのだろうか(単なるスケジュールの都合だったのかもしれないが。キャストの都合などもあるだろうし)。


さて内容はというと、今年流した戦争ドラマの中ではもっとも好印象のある内容だった。もっとも、アニメ版を何度も見ている私に先入観を完全に排して見ることができるはずもなく、随所で比較や拡大解釈をしてしまっていたことも事実。

恐ろしきは幼子の役者魂だ。節子役の女の子、想像を絶するハマり役。一番大事なところに下手くそな子供を連れてこざるを得なくなり、ドラマ版は失敗すると私は思っていたのだが、いやはや、恐れ入りました。よくぞ見つけてきたよあの子。申し訳ないが、事前にずいぶんとテレビ局が押していたメインキャストの松嶋菜々子さんの方は、汚れ役ということも手伝ってか、子役に比べてぱっとしないように感じた。

ドラマ版「火垂るの墓」スタッフ。節子役は、佐々木麻緒という名らしい。
http://www.ntv.co.jp/hotaru/cast/index.html

しかし明らかに松嶋菜々子の事前プッシュが強いし、Webサイト上でも目立って表現されている。そしてドラマ版は実際、アニメに比べて焦点の置き方が大人向けになっている。

つまりドラマ版では、大人の目線から「ああ、幼い子供たちを死なせてしまった」という表現を行っており、アニメ版の「僕たちは殺されてしまった」という子供視点の作り方をしていないのだ。

私は、子供の頃からこう思っていた。親を失い、人々にも忘れ去られたどこかの誰かの子供が、川辺の洞穴で、駅の片隅で、ひっそりと死んでいく。誰にも知られることがなく…という流れこそが「火垂るの墓」の最大の特徴なのかなと。


思想の中立性を保てているかという点では、昨今の他の戦争ドラマ同様、無用なところで歪曲を生み出す原因になっていると感じる。アニメ版では海軍大佐は軍人像よりも“よき父親、頑張る父親”という部分が強調され、軍人の解釈など発生していなかったが、ドラマ版では「国を守ってなんかいない」などと主演に切り捨てられる始末。そして、そこに対する補足はなかった。つまり、節子たちの父親はステレオタイプの悪役日本軍人扱いだ。

最近ではこの手の扇動番組作りは制作者側が意図的に行っているような感じもするので、これはこれで仕方がないのかもしれないが、相も変わらずマスコミはやることが露骨だなぁと、ピュアなイメージの強い「火垂るの墓」から感じざるをえなかったことが残念でならない。


それと……ね。…いやまぁ、これもアニメの影響を受けているよと言われてしまえばそれまでなのだが、このドラマは元々、子供二人の悲哀物語が主なわけで、父ちゃん母ちゃん役や親戚の誰か役などどうでもいいはず。これは予想通りだったが、やはり大人を中心に持ってきた作り方はよくなかったように思う。

そもそも、役者にスポットを当てると、この手のドラマではギャップを感じやすくなるというか…。例えば、歴史上の有名人にスポットを当てたドラマなどで「家康役は○○!!」みたいな宣伝をしたり、連ドラの主役を紹介する場合なら分かるのだが、「火垂るの墓」の場合“名もなき市民”の間で起こる“誰にも語られない物語”を語ることが大切なわけで、キャストのネームバリューで売っていこうとする方向自体に勘違いを感じる。

無論、役者の演技力は求めたいところだし、美形の役者を使ってもらった方が盛り上がりやすいことは確かなのだが、じゃあ「役者:松嶋菜々子」に興味のない人に見せるつもりがないのかと聞かれれば、テレビ局側も決してそうではないだろう。

ドラマは一人で作るものではあるまい。大勢が一生懸命に作ったものなら、それなりにいいものができて、結果として太い層に満足してもらえるものになると思う。役者は適切に選び、それぞれの役目を果たしてもらえればそれでいい。一番大切な部分は「みんなで作り上げた中身」だ。

個々のキャストはどうでもいいと思うのだ。流す側は「無名のあなたにも見てもらうことが大切」とは思わないのだろうか?それとも、キャストの名前を高めることが目的だったりするのか?