最近思うことと制作

投票後、まったり過ごしたいのだが……。最近、開発作業が調子いいので止めたくないナ……。余計なことは考えないスタイルで。

最近、周囲の変化もあって、自分のこととか家族のこととかサークルのこととか考えることが多かったのだが、もういいだろう。自分が生活(活動)したい土壌としてふさわしい地盤を作り、周囲の環境を整えて、当初の目標を追求するだけだ。無理そうなものは捨てて駄目なものは変えて充実した日々を過ごせるように努力する。ここ一年で、その成果があがっている気がする。

自分は、他人のために存在するのではない。他人の言葉を吸収するために存在するのでもない。他人の言葉を吹っ切るために捨てがたいものを捨て、新しいものを得たのだから、それを活かせなければ負けなのだ。自分が“死んで”しまっては何もならない。それに、自分で自分を信じてやらねば誰が自分を信じるのだ。


もう一つ。世の中に参考(先生)になるものは無数にあれど、それらを取捨選択するもっとも優秀な脳は自分(本人)が持っている、という話。これは他人の意見が参考にならない。脳の働きを活性化するために、無駄話をしたり相談したりする価値はあるだろうが、それだけだ。

他人が凄いと思ったことが、自分にはたいしたことがない。あるいは、自分が凄いと思ったときに、他人がそう思わないことがある。それを認めたとき、戸惑いを得ることもあろうが、大抵は自分の考えに従った方がいい結果を得る。少なくとも、そう思うことが多いのだ。これはジンクスというより経験則だ。

雑音と自分の判断を誤ることなかれ、といったところだろうか。

しかし、後述する認知的不協和理論が影響して、無理矢理自分の中でそう思いこんでいる可能性もある。


最後に。認知的不協和理論というものがある。何週間か前に、私が定期的に読んでいる日記サイトにぽろっと言葉が出てきて、興味を持ったので調べてみたのだが、なかなか興味深い内容だった。これは誰にでもある人の“欠点”であると判断できるが、同時に発狂しないようにするために大半の人間に必須の性質でもあるように感じる。

仲のいいコミュニケーションを行うためには、暗黙の了解としてこの性質を互いに持っていることを認める必要が出てくる。が、まあそれはいい。

問題は、議論の場ではこれを抑制する精神力が必要になってくるということだ。でなければ詭弁が多くなるだろう。当然個人差があり、人によっては耐えきれず都合のよい情報のみ示し詭弁に走ることになる。はてさて、自分が認知的不協和理論にハマらず議論できていると断言できるか。

周囲はどうか。持ち出されたときにどう切り返すか。あるいは無視できるか。


…といったことを、自分に言い聞かせてみる今日。ちゅうか他人が読んで理解できる話じゃないネ…。