3.記憶の作品

記憶を頼りに書いてみる。

メジャーどころのネタが多いことは多いが、作品知らない人にはわけわからないよね……。他の作品については後述。

最初はこれ

初めて友人から紹介された作品が『城砦都市カーレ』で、これにハマった。有名ブランド作品の中でもっとも難易度の高いクラスに入る本作品。この出会いが、後のあらゆるゲームライフに大きな影響を与えたことは間違いない。

もし第一巻の『魔法使いの丘』の方を紹介されていたら、また違った人生を歩んでいた可能性も。結局、高難易度志向で入ったために、『火吹山の魔法使い』ほか、その後に遊んだいくつかのFFシリーズ作品や、ファミコンゲームブックシリーズがさほどいいと思えなくなってしまったのだ……。

買ったけど未プレイ

今でこそ部屋に沢山ある山積みゲーム。私の人生で一番最初に「積んだ」個人向けゲームは、『ネバーランドのカボチャ男』だと思う。PCゲームではなく、実は本が最初だったのだ。

購入動機もそれらしく、好きな作家の作品だから買った、という。結局、作家やジャンルに目が眩んで買ってしまうと山積みの元になるというのは、当時も今も変わっていないということか。

凶悪。まるで『たけしの挑戦状』のようだ……

時折、恐るべき難易度でプレイヤーを苦笑いさせる作品が登場する。

これは、なんと言ってもクトゥルフ関係。まず『暗黒教団の陰謀』は外せない。そして『地獄の館』。結局、この二作が私の中で頂点を極めていた気がする……。

なぜクトゥルフはいつも特級の難しさなのか。世界観を考えると分からなくもないが、他の作品と比べて、相対的に難しい必要はないはず。この二作に共通しているのは、「生き延びられる選択肢の狭さ」だ。正解経路がとてつもなく狭く、クリアが困難。初期の選択の誤り(プレイヤーは気づかない)が最後まで響いて、ゴール近くで100%死亡する、なんて状況が当たり前。

別の意味で難易度が高かったのが、『ネバーランドのリンゴ』『ニフルハイムのユリ』『グーニーズ』。迷路が突破できないんですよ、とにかく。バッドエンドにはそれほど引っ掛からないのだが……というより、罠のある場所を憶えてしまうので。

また別の意味で難易度が高かったのが、『七匹の大蛇』かな。突破できないと死が待っているリドルがあるのだが、日本の小学生には難しすぎるヒント(イラストでヒントを提示)しか出てこないので、普通はクリアできないのではなかろうかと。

噂では、FFシリーズにも凶悪な作品があるらしい。もし復刻したらぜひプレイしてみたいものだ。

息抜きをしたいときもある

高難易度志向だった私も、時に低難易度の作品が楽しいと思ったことがある。『ドラゴンの目』だ。

初期の頃に入手していれば、きっとつまらない烙印を押していたはずだ。が、ピーク時には、これでもかというくらい凶悪な難易度の作品が登場したため、その中にポロッとヤワなゲームを遊んでしまうと、一種の清涼剤のように感じてしまう。

コンピュータに移植すれば成功?

一作だけ。『展覧会の絵』を推したい。

現代のノベルゲーム好きにも適合できる、数少ないゲームブックかなと。音楽と一枚絵付けて、ちょっとゲームバランス変えて売ったら、ヒットする予感もする。そして、ゲーム界に話題を喚起する可能性は高い。と勝手に思っている。

誰かやってみてくれい。おねげーします。

意外な作品が面白い

ちょっとマイナーでも、思わず面白いと感じることがある。

まず『巨大コンピュータの謎』。安田均氏が訳しているからかもしれない。なぜかこの人が訳した作品には好きなゲームが多い。『巨大コンピュータの謎』には格別ひねりがあったわけでもないと思うのだが、なぜか惹き込まれた。バランスがいいというだけで、他の理由は見当たらない。借りただけだったが、二回はクリアした記憶があり、返すときに寂しさを憶えた。

そして『ドラゴンの目』。息抜きゲームとしても挙げたが、難易度が易しめで面白いと思ったのはこれくらい。魔法システムを採用しているゲームの中で、もっともお手軽感の強いゲームだと思う。やはり、ひねりはない。誰も名作には挙げてくれないだろうなぁ。

『ウィザーズ・クエスト』も。ちょっと変わったゲームブック。たまにはこんなのもいいなぁ、なんて感じた。

当時、有名なのにイマイチだった

有名なのにイマイチと感じる。これは結構ある。肩透かしを食らってしまうのだ。

火吹山の魔法使い』『展覧会の絵』『送り雛は瑠璃色の』の三つ。知っている人には、何で?と思われるかもしれない。だが、どうしても肌に合わなかったのだ。これは仕方がない。

火吹山の魔法使い』は、ひねりのなさと難易度の低さが合わなかった。そりゃそうだ…、より後発の名作『ソーサリー』を先に遊んでしまったのだから仕方がない。これは単に、順序の問題だろう。

展覧会の絵』は、中学生当時、先入観でバカにしていた。戦闘ルールがないというだけで。今はいい感じ。面白いと思う。

送り雛は瑠璃色の』は、世界観が合わなかった…うぬぬ。申し訳ない。

本の限界を感じた……

ここで、独断と偏見で選んだ二種類の例を挙げてみる。

まず、グループA。『ネバーランドのリンゴ』『ニフルハイムのユリ』『スーパーブラックオニキス』『パンタクル』の四作品。

次に、グループB。『ウルフヘッドの誕生』『ウルフヘッドの逆襲』『パンタクル2』の三作品。

鈴木直人氏と林友彦氏の作品がちりばめられている。この二人は、双方向で自由度の高いゲームを設計し、フラグ管理やテーブル管理をよく用い、さらにはコンピュータゲーム並みのパーティプレイを実現した作家として知られている。

私は、システムが複雑化し、本の限界を研究するという意味では、このあたりの作品に、大きな資料的価値があると感じる。

多くが、フラグ管理やテーブルジャンプを徹底して用いた作品で、厳しい制約がある中、よく工夫してあった。しかし、後期に出たグループBの作品群は、あまりにもデジタル色が濃すぎて、物語を進めているというよりも、本に操られている印象の方が強くなってしまう。

グループAにしても、その片鱗が見え始めていた。いや、そもそも鈴木直人氏の『ドルアーガの塔』シリーズの段階で、入手しても役に立たないフラグアイテムが目白押しだった。

自分は、アドベンチャーを求めていたのではなかったか? いつから番地とパラメータを追いかけるゲームを遊ぶようになったのだ? と、終わった後で思うようになってしまった。双方向ゲームゆえの悲しさか、すべての場所に行ったかが気になって、冒険している気持ちを強く持てないのだ。

決して、つまらないゲームではなかった。グループBの作品とて好きだ。だが、手軽に冒険に出られるゲームブック元来の楽しさが、システムが複雑になるにつれて失われていった気がするのだ。

とはいえ、みんなが『ソーサリー』のような内容を書いていてはマンネリになる。だから、継続してゲームブックを出し続けるのなら、毎回新しいアイデアが必要になる。しかし制約の多い本というメディアでは、工夫を盛り込みづらいことは分かっている。やはり、アナログの限界も考えなければならないのかな、と。