WikiとWikipediaの誤解

いろいろ調べていたら、世間ではWikipediaを略してWikiと呼ぶケースがあるようで。一部の場所ではWikiと言ったら百科事典になってしまうわけか。

いやなんとも意外に思うけど、ありえない話ではないなぁ。

言葉なんてものは状況に応じて使い分ければいい。まして時間が経過し、歴史的に使い込まれた言葉は、文脈に応じて様々な意味を表すよう変化することがあって当然だと思う。

しかし現実的な問題として、私のサイトのように、Wikiという用語を特定Wikiに限定しない使い方をしてきた場合には、世間で「WikiイコールWikipedia」という認識だけが一人歩きしてしまうと困ったことになる。じゃあ今までWikiと呼んでいたものはなんと言えばいいのか。WikiWikiと言えばいいのかWikiクローンと言えばいいのか。もちろん、WikiWikiにしてもWikiクローンにしても、語句として定着してくれるならOKなんだけど。過去の文書はどうしたらいいか。

当面は、普通にWikiWikiでいいだろう。WikipediaWikipediaとちゃんと書く。

似たような問題は日本語でも起きる。たとえば「檄を飛ばす」を本来の意味で使ったつもりが、相手にはまったく違う受け止められ方をしてしまい、話がかみ合わなくなったときにどうしたらいいか(例が悪いですか。まぁ大目によろしく)。

誤解を防ぐために「本来はこうこうこういう意味があるんだよ」と押しつけがましく説明を始めれば別の問題が生まれそうだし。そもそも名詞的な意味を持つ檄の字と、程度を表す激という字は、それ自体の意味がまるで違うんじゃないか。正しい漢字を知っていれば、むしろ「檄を飛ばす」を激励の意で用いるなんて違和感を感じてその気にならないと思うんだけど……言葉は勢いで用いることもあるから難しい。

個人的には国語に自信がないし、いつでもどこでも日本語は元来の意味で使わなきゃダメなんだ、なんて叫ぶつもりはさらさらないんだけど、ひとたび知り得た事実は、今後の人生の中で活かしていきたいじゃない。それが学ぶということだろう。

最近ではテレビのアナウンサーの口からよく聞く。激励の方の意味で「檄を飛ばした!」の連呼連呼。ウケ狙い(若者ウケ狙い?)でわざと使っているのかもしれない。それとも、過去に使い方を間違えたことのあるアナウンサーが、時間をかけて正当化するためにわざと連呼してるのかな。確かに、情報というものは普及したものが勝つ。世間に流通した新しい価値観が、一つの正義として世の中に定着すれば、それを否定することは難しくなり過去の誤りが誤りでなくなっていく。これは仕方がない。

まぁ、言葉の使い方が多様化していくのはいいとしても、元の意味が忘れ去られて、正しく使っていた人たちの側が「誤っている」と指摘されるような時代にはなって欲しくないものだ。せっかくWWWが整備されて文書の保存性が高まっているというのに、古い資産が誤解を受け嘲笑されるようになったら悲しいじゃないか。

新しいことのみが正しいのではなく、古いものに追加する形で価値観が認められていって欲しいものだ。