ブログを自己分析を目的として書くか

ある人によれば、ブログを公開する人の多くは、「自己分析」を目的としているらしい。ブログには、日記でも通常のウェブサイトでも得られない、ちょっと厳しい目で見た自分を見出すことができるのだとか。

なるほど分かる気がする。ブログには返事を返す機能があるので、自分をある程度客観視して、悪い反応を招かないような記事を書かないと(独りよがりすぎる記事を防がないと)、ちょっと怖いことになる。だけど形態は日記に近いから、他人の役に立つことはあまり書かない。

人目を気にはするけれど、他人のための記事を書くわけではないところに、ブログ独特の良さがあるのかもしれない。

でもねぇ。私なんかは当雑記を完全に「人格の一つ」とみなしてるし、こうして何かを書きつつ、自分のことをよりよく知るという思考には結びつかない気がする。ここは意図的に、読者の層に合わせたゲーム記事を多く書くようにしている。利用者も楽しめればいいと思っているのだ。楽しめなくても責任は持てないけど。

私が当雑記を書く理由は、ゲームネタ中心という前提はあるが、好きなネタを書きたいから書くのではなくて、ネット上に作り出した熊恭太郎というアマチュアゲーム制作者の立場から、どれだけいるか分からない読者との距離感を楽しんだり、読者の推移を見て楽しむためなのだと思う。自己分析というより、世間分析というか。

最近では、なぜかダンジョンクルセイダーズ体験版の感想記事へのアクセスが異常に多いので、アダルトゲームのネタだって増やしてもいいと思っている。そうしたネタの操作によって、読者の層がどのように変化していく(増えていく)のか、楽しみにしているのだ。

加えて、開発の連絡場所として便利なので、Desigeonのサポート情報を書いていたりする。この辺は使い分けがいい加減だけど、あんまりたくさんのブログを管理するのは大変なので、タグで分けつつ混在させてもらっている。いずれにせよ、Desigeonタグの記事は、その多くが、前述のものとは違う目的を持っている。


方向性がまったく異なるが、別の場所ではこのハンドルを用いないで、まったく違った調子で「思想っぽいこと」を書いてる(更新止まってるけど)。だけど、やっぱりそちらも「自己分析」とはちょっと違う気がするのだ。

表向きは没個性を前提にしているため、自己分析どころか、あたかもそこに自分が存在しないかのような書き方になっている。コメント欄もトラックバックも非公開。

一方で熊恭太郎雑記の特徴は、コメント欄とトラックバックをオープンにしてあることだ。だから「人目を気にしながら書いている」ことは間違いない(もちろん、この方針は永続するとは限らない)。

だが、思想記事は違う。思想記事は、他者の介入が発生した時点で思想ではなくなる。コメントなどゆるさん、あっても一切返事は返さない、という姿勢で書くことが思想提示の前提となる。もちろん、世間からリンクを張られても、そこに悪意や歪んだ嘲りが感じられない限り、告発することはなく放置を前提とする。

人目を気にした段階で、それは思想記事ではなくなってしまう。自分を客観視するとか、あるいは自分のために何かを書くとか、そういう要素からはとてつもなく遠い気がする。


ブログも色々ある。なるほど、中には自己分析という人もいるのかもしれないが、私にはそういう経験がないようだ。

……あれ、だけどこの記事って、自己分析っぽくないか?