期待してしまうAIとその無理

ガンパレードマーチにはシリーズの別作品が出ていたんですね。『絢爛舞踏祭』という。ガンパレードオーケストラは知っていましたが、これは知りませんでした。三年くらい前のゲームみたい。

絢爛舞踏祭というゲーム

絢爛舞踏祭は、強化したNPCのAIをウリにして、政治的もしくは戦術的なバトルと、自由度の高い仮想生活空間での人間関係を満喫するゲームらしい。たぶん意図的にやっているんでしょうが、やけに高圧的な開発者サイドのインタビューが公式サイトらしきところに出ていて、ははぁ、長くて全部は読んでいられないけど面白いなあと思いながら読んでおります。

絢爛舞踏祭』の特徴的なこととして、リアル時間に連動したゲーム進行システムがあるらしい。簡単に言えば、マシンを切っている間もNPCたちが勝手にゲームを進めていると。

ゲーム期間は最大三年で、セーブすると最低でも一日が経過、24時間マシンを切ると再開したときには48時間ぶんのゲーム時間が進んでいるんだとか。プレイヤーがゲームを遊ばずにひと月あけると、本当にゲームの中でもひと月以上が経っていて、仲良しだった友達が戦死していたり、人間関係が変わっていたりするんだと。

なんとまあ、たいそうな野心作を作ったことですな。興味はあるけれど、とても手を出せませんな……。毎日10分ずつ遊べとか。よしんばプレイ環境を調達しても、開発サイドの意図に則った遊び方をするのは無理そうです。

野心作は野心作

野心的な試みは嫌いじゃない。私好みのゲームだ。あんまり面白そうなゲームに見えないところがそそる。私好みの“意図”が満載だ。

絢爛舞踏祭とは関係ないけど、ガリバー的な着想を持ったゲームは過去にも幾つかあった。昔からそういうものに憧れていたことを思い出す。

まず世界をリアルタイムで動的変化させ、常に勢力バランスをとり続けるという「ウルティマオンライン」は理想を唱えた時点では素晴らしいものだった。

エストとマップが無限に生成されなおす世界で、自分と仲間の人生を追いかけていく「ルナティックドーン」シリーズも野心たっぷりのゲームだった。

3D版のMYSTも「生活空間」という主旨とは異なるが、無限の時間を満喫するゲームだった。

ここに挙げた三つはすべて私の好きなゲームだが、とりわけRPGについては、理想に近づけようとした部分の出来が中途半端で、それ以外の部分がひどかった(細かいところに不便があったり、理不尽さを感じたりして遊びにくい)。エンターテイナーがくれる娯楽の部分と、理想的な青写真を具現化することの距離感を、ひどく感じさせてくれた。

やはりまだ、理想を求めればこの程度かと。すごろくで最初のターンが回ってきた。ようやくそこに至っただけだった。

考え方への興味

こういったジャンルのゲームには「ライフゲーム」のようなアメーバに原点を見出すことができる(注意:「人生ゲーム」ではない)。私はこの手の考え方がとても好きだ。自分でも作ってみたい。

ガンパレとして欲しいもの

AIに思い入れを持つのは、メーカーのベクトルを示しているのかな。そこに金を掛ける方針を掲げているんじゃ仕方がないか……。

世の中で日々生まれて廃れているAIについて、驚くほどいいものができたなら、おそらくうつ病患者のカウンセラーとして人間に取って代わることができるだろうし、老人介護や認知症患者の世話だってお手の物だろう。暴力沙汰で困っている中学校の教壇にも立てるに違いない。で、そういった社会問題が解決されたというニュースはいまだ聞かないので、たぶん医療分野や教育に使えるほど凄い技術は、まだできていないんだろう。きっとバイオリンを弾くのがやっとなんだ。ましてハードリソースの乏しいPS2で、自信作のAIと言われてもピンと来ない。スパコンを何十台か繋げて動くゲームなら期待しちゃうけど。

うーん、ガンパレードマーチの「良いところ」は捉えた人次第なんだろうけど……、私はAIの部分には最初も今も面白味を感じていないので、ガンパレシリーズと言うからには、ゲームたるべくして作られたゲームを遊んでみたいなあ。

ガンパレで面白かったのは、明るい学園生活の中に、退廃的で殺伐とした世界の変化がひしひしと伝わってくる演出と、戦場での戦術だった。アルファベットと三角形だけであれほど楽しめるゲームを作れるなんて、PSゲームの開発者も捨てたモンじゃないと思った。3D全盛の時代に3Dらしからぬ戦術ヤリコミゲームを見たとき、大した奴がいるもんだと思った。

AIは小道具に徹した方がいいんじゃないか

未プレイのAIゲームに限らないが、人を満足させるAIを作るのはまだ無理でしょうな。一時的に新鮮味を与えるAIなら作れるでしょうけれども。

AIの作り出す世界の流れが悪いというわけじゃない。ただ今日、私がゲームの中で面白いと感じる部分は、もっと素朴で小さいところ、それも次元の違うところにあったりする。細かくはうまく言い表せないが、それは大抵、デジタル的でしかも非現実的なところにある。きっとプレイヤーが思うがまま「操作して楽しい」ところだ。おもちゃとして遊べる(弄べる)ところだ。

しかしAIはプレイヤーの支配下に落ちた時点でAIでなくなり、直後から煩わしいだけの信号機に落ちぶれる危険をはらんでいる。AIは、プレイヤーが「操れちゃったらつまんない」のだ。というよりAIとしての意味をなさなくなるのだ。現実がそうじゃないか。告白してOKをくれるか分からないからドキドキしながら告白するんだ。ゲームだとプレゼントをあげればセックスできると分かっている。それは今日も明日も変わらない。そう知ってしまい、操れちゃったらAIでもなんでもない。

プレイヤーが驚くようなキャラクタの動きは今のところ、プログラムによる表現よりも人間の想像力の方がはるかに勝っていて(しかもプレイヤーごとに違う)、その想像が外れる可能性もあって、リアル社会側にはむしろ、想像を絶する事実がどこに隠れているか分からないところにミソがある。

さしあたり私としては、意匠を凝らしたAIよりも、想像力を爆発させる舞台装置とゲームの部分をメーカーの方々には期待したい、というわけですな。

でも再三になるが、野心作は好き。無理してると分かっていても見てみたくなる。

明日の予告

明日はリアルタイム進行する育成ゲームのプレイ状況を紹介します。こちらにもAIが搭載されており、『絢爛舞踏祭』に負けず本当に三年間育て続けました。AIはまだ、見る側よりも作る側が楽しむ分野。そんなことを思わせてくれる一品であります。

いやー、良いタイミングなんで。ワシはもっと小さいところに喜びを見出しちゃるぜ。