おもしろいゲームの開発手法

Yahooに、アーケード版「パックマン」が最も成功したゲーム機ということで、ギネス入りした記事が取り上げられていた。

で、その関連記事として、「『パックマン』の生みの親が語る、おもしろいゲームの開発手法」なる記事があったので、読んでみた。

http://www.dengekionline.com/data/news/2003/09/04/e1bf4ecdd8793b72f088b748bd4d31d8.html

これはもちろん商業向けの話であるわけだが、個人的にも共感できる部分、なるほどと思う部分、これはどうかなと思う部分様々で、結構面白かったので読破してしまった。(上から4枚目の画像の「アゴーン」というネームに反応してしまったことは内緒である(内輪ネタ))

私としては、PCゲーム界に広がる「萌え至上主義」の押しつけがましい風潮(私が勝手に感じている)よりも、こういった人間の本能に根ざす“Fun”を追求した理論を聞く方が楽しいと感じる。まあこれはプロフィールにも書いている通り、私自身の制作スタンスに近いからなのだろうが。

萌えにも萌えの理論があり、今後も専門家によって掘り下げられていく分野なのかもしれないが、振り向けばキャッチ一辺倒の萌え製品ばかりが並ぶゲームショップにいると、その戦略性や創造性に魅力を感じず、まるで文房具店で小学校の授業に使う色鉛筆やノートを選ぶような気分になってくる。何となく手にとって「じゃあ、これ」とレジに持っていって、それで「開拓」のすべてが終わりなのだ。

私はコレクターになるべくゲームを購入するのではないし、義務で店に来ているわけでもない。新しい楽しみを見つけるために、あくまでその入り口に立ったつもりで、真の楽しみは家でなければ味わえない、という感覚でショップに足を運ぶのだが…、店を出ると、その段階で楽しみが終わってしまっている自分に気づく。帰宅してインストールしても、どれも同じような中身にしか感じないのだから寂しいものである。

もっとも、最近はショップそのものに足を運ばなくなったということが別の話としてある。私がギャルゲーを開拓に出たことは殆どない。最近はどんなんだろう、と参考にするために購入に出向いても“ダメでもともと”という感覚で探しにかかるのが関の山だ。酷い言い方だが、ゴミ捨て場の中からまだ使えるものがないか探す気分だ。

これって、ホビーとしてのゲームを購入する本来の形なのだろうか。それとも現在のゲームショップは、おもちゃ屋が子供の瞳の輝きを獲得しようとするごとく、ユーザーの喜びを売っている、という感覚を持ち合わせていないのだろうか。だとすれば、そこで売られているものはなんだろう。欲望?コレクターズアイテム?ということは、むしろ「大人のおもちゃ」や昔の「ビックリマンチョコ」に近い?そうか、この二つは近い存在だったのか。(まあここは冗談)

ここまで書いて、何となく昨今のギャルゲーは“楽しみ”を目指したものというよりも“癒し”を目指したものであるような気がしてきた。この件は、深く考えると長くなりそうなので、今回はここまでということで。


そういえば、小学校の頃、友人が「スーパーマリオブラザーズ」を購入した帰りに、「早くやりたい!早くやりたい!」と叫びながら自転車を駆って、もの凄い勢いで私と共に帰宅したときの彼の後ろ姿を思い出した。あの時、私たち二人がデパートで購入したゲームはその一本だけだったが、二人のあの必死の行動には、今日、ギャルゲー十本をまとめて購入しても及ばない情動が含まれていたような気がする。

スーパーマリオブラザーズ」の前情報など、私たちはほとんど持ち合わせていなかった。偶然、目の前にあった商品の中で、どれにするか考えた末、「これ、良さそうじゃないか?マリオの新しい奴みたいだし」という程度の認識で決まったのだ。それでも帰り道、あれだけのわくわく感が当時湧いて出たのだが……。

なんかこう、必ずしも斬新でなくてもいい、いつも挑戦を旨とした、わくわくさせてくれる集団っていないだろうか。商売の世界でリスクの高い勝負はできない、ということは以前から言われていることで、期待はできないのかもしれないが。

昔の方が良かった、とは断言したくない。年を取ってからも新鮮味を得る機会はあり、決してピュアなゲームの楽しみを生み出せない世の中になったわけではないと私は考えている。ただ、今周囲を見回して、パッケージに描かれた女の子のデザインを見ていると、同じ旗の下に集まった兵士の顔のように、みんな似たもの同士に見えてしまうのだ。