面白いゲームと著名作品

『シルフェイド幻想譚』以降、何本かフリーのツクール作品をチェックしているのだが、なかなか自分にヒットするものが見つからない。やはりあの出会いは偶然だったのか………。

現在、ツクール作品の中でグッド!と思ったものはこの一つだけである。まぁフリーソフトが大半なわけだし、期待して求めてはいけないものではあるのだが、ツクールの普及度を考えると、少々寂しくは感じる。ただ、私もフリーソフトを何本かアップしたことがあるが、確かにいい反応を期待して出すことは少ないんだよなぁ。

私は、どんなにCGのショボイゲームであっても、1万円を出しても惜しくないときは惜しくないと感じる。つまらない作品が大多数を占めるゲーム業界なればこそ、面白い作品にはそれだけの価値があると思うのだ。つまらない作品であれば、500円でも高いと感じる。もちろん、感情的に若干の修正はあろうが、ゲームを求める姿勢はこの「1万円を出しても惜しくないものはないかな?」が基本になっている。

そういう話をすると、自分の作品が惨めになってしまうのだがそれはさておき。現実的に、500円のそこそこ面白いゲームが、1万円の名作に勝てないことは自明であるから、消費者としては正直であるべきと思う。

世にあまたいるゲーマーたちはどうだろう。ライトなゲーマーほど、私と同じような傾向があるように思えるのだが……。


人がゲームに手を出すとき、無意識のうちにもっとも大切にするものが「時間」であると思う。人生には限りがあるわけで、その中でできる限り長く楽しいことをしていたいというのが人情。何らかの他人の誘いを断ったり、サイトの更新をサボる理由として「忙しいから」を多くの人が常套句にしていることからも分かるとおり、並みの日本人であれば貴重な時間を楽しいことに費やしたい、一方で無駄なことはしたくないと考えるのが普通だ。

逆に言えば、無駄ゲームを掴んでもよしとする人や、私のように仕事でもないのにサイトの更新を頻繁に行う人は、怠惰な暇人であるかスーパーマンであるか、内容の善し悪しに関わらず、別のメリットを求めることのできる人たちだろう。

つまり、普通は「時間」こそがもっとも貴重な商品であり、ゲームを購入するということは、「楽しい時間」を求めているということであり、結果として「面白いゲーム」は価値が高くなるわけだ。休日、家族と遊園地に出かけるかわりにゲームを購入する。これは立派にレジャーしていると言えるから、金をかけることに躊躇いはあまり持たない。

逆に、「つまらない時間」を提供する作品は、手に取ってしまうとマイナスが大きい。同じ時間だけ、ひょっとしたら別の作品で楽しめたかもしれない、と思うと、とてつもなく残念な気持ちになる。貴重な余暇は、楽しいことに費やさねばならないのに、クソゲーで一日が終わってしまい、また翌日から仕事に入るなど、常人が歓迎することではない。マイナスを補うために、むしろ金払ってくれ、俺の休日を返せ、という気持ちにもなるわけだ。

だからプレイ中、一定時間分の楽しさを提供してくれる作品であれば、価格など問題にはならない。クソゲーが氾濫する現状、楽しい時間を過ごすということは、相対的に価値があることなのだから。もちろん、安価であればあるほど歓迎ではあるが(価格が一定以上に高いと、欲しいと思っても手を出せない現実があることも確かなので、価格という要素そのものについては、また別の機会に話せればと思う)。

だから概して、多くの人が話題に流されやすく、著名作品に流れる。著名作品であれば、ハズレが少ないことを知っているからだ。たとえ一万円でも、著名作品であれば多くの人が手に取るに違いない。

一方で、地雷を覚悟で発掘にいそしむ人は多くない。世の中それほど暇人は多くないだろう。

まぁ、特定のジャンル好きであるがゆえにその畑ばかりを耕しにかかる人はいるようだが。たとえば、萌えキャラ(少女キャラ)好きが萌えゲーばかり見境なく購入する、といったように。大抵、積みゲーが多い人たちであると思うが、いずれにせよ多数派とは思えない。

結局、一般人にとって、ハズレの危険が高い(=時間浪費のリスクが高い)フリーのゲームや同人作品には普段から手を出さないことが、無駄を無くす最善の判断であると考える。つまらないゲームは、マイナスなのだから。少なくとも、そういうイメージを持っている人は多いと思う。


…と上記に書いたが、「多くの人が著名作品に流れる」本質的な理由は、実はもっと違うところにあると私は考えている。「ハズレが少ない」「面白い」という“建前”があることは否定しないが、そこには、人間が社会的生物であることに根ざす独特の集団意識が働いているように思う。

社会の一要素である人を結びつけるもっとも重要な要素はコミュニケーションである。一応、私はこれを前提として考えている。

何もないところにコミュニケーションは発生しないから、人はそれぞれ、社会的な存在である(=異端児ではない)ことを強調し続けるために、何としてでもコミュニケーションの種を生み出そうと、もしくは種を利用しようと努力する。その最たるものが「今日はいい天気ですねぇ」といった、さりげない日常の会話に現れるわけだが、この台詞は誰にでも通じる話題であればこそ有効であるし、効果としては何ほどのこともない。

ゲームの話題でこれをやろうとすると、個人の感性に依存しすぎるために、ある程度話が合わなくても相手に同調できる、もしくは共感できる仲間同士でなければならない。天気の話に比べると、ゲームの会話によって社会的生き物であることを主張することが難しいのだ。例えば、「ウィザードリィは名作だよな」などという会話は、近所の主婦と結びつけるファクターとして成立しづらく、ご近所づきあいの中で、仲間外れを防止する種としては効果が薄いわけだ。

そんな中、無難な話題として出しやすい種が「著名作品」なのだ。「著名作品」は、人と人を結びつけやすいコミュニケーションの種。人は仲間外れにならないために、「著名作品」に触れたがる。そして、「著名作品」にはポジティブな印象が付きまとう。これもプラスになる。他人をけなすより、褒める方が好まれやすい。

このために、「面白いゲーム(映画、番組)だから」という建前のもと、「著名作品」に何としても絡んで、褒めようとする。少なくとも、話題に乗る。これが、「著名作品」に手を出したがる大多数の本音であると思う。

なぜ建前が必要なのか。それは、話題性の高いものに必死にすがり、社会のつまはじきにあっていると思われてしまうことへの恐怖感からである。「俺は別に仲間外れにならないようゲームをやってるんじゃねぇ。面白いゲームを遊んでるだけなんだよ」といいつつ、話題に乗るためにゲームを購入しているわけだ。

逆に言えば、人は潜在的に「著名作品」の出現を求めている。これがなければ、天気以外の話題で社会にぶら下がることができなくなる。他人から、寂しいヤツだと思われることを防止するアイテムに事欠くようになるためだ。

この意識は、非常に潜在的なものであるから、本人はあくまで「面白いから」という理由に固執し続けるだろう。もちろん、本音の方を前面に押し出して、最初から話題性重視で選んでいる人もいるから、人によりけりだが、ことゲームに関しては、「著名作品」が著名になった理由は、人が潜在的に抱えているコンプレックスの中にあるのだと思う。

だから、「著名作品」は社会的には名作であるかもしれないが、面白い作品であるかどうかはまた別の問題である、と思うことが大切である。それを考えれば、面白い作品を純粋に求めたい人が心しておかなければならないのは、話題に流されない気持ちの持ち方と、良作を見抜く目であると思う。

私自身、話題そのものは軽視する傾向にあり、己の感性に忠実な作品を探したいと思う者の一人である。従って、これらの社会的現象を冷静に見つめて、良作を見抜く目をさらに養わなければ、幾度となく無駄な休日を過ごすことになるだろう。

といいつつ、次の話題作は何かと待ち受ける気持ちも別にあり。これもまた、ゲームを求める観点とは別にして持っている。悲喜こもごも、大衆の表情の変化を観察して、時にそこに参加するもよし、人間のいい加減なうつろいをはたから眺めたり、付き合ったりするのもまた心地よいものだ。私も、凡庸な社会的生物の一人であるということか。