評価の難しさ

フジテレビの『発掘!あるある大事典II』がねつ造問題で揺れているようで。

私は、そもそも内容を信じて視聴する番組だと思っていなかったので、まさかこれほど影響力を持っているとは思わなかった。つい一昨日、店頭に並ぶ納豆の在庫の少なさに唖然としたばかり。ねつ造報道はその直後だった。

今回の一件はどうせ氷山の一角なんだろうけど、オイルショックだとか米騒動だとか、とにかく大衆はこの手の情報操作に弱いので、自分でも気をつけたいところ。まぁダイエット情報に踊らされることなど一生涯ないだろうけど。

ネットやパソコンに関する虚偽情報が流れれば、私も分かりませんな。

そもそもこうして記事を書いていること自体、フジテレビの思惑によって話題を喚起させられた結果なのかもしれないし。


ゲームの面白さというものは、時に風説が大きな影響力を持つ。いわゆる口コミが甘いか辛いかによって、ゲームの批評が左右されることが多いように思う。特に流行ものはこれを感じる。

世間で上々の評価を得ている作品を、実際に遊んでみたときにギャップを感じてしまい、必要以上に落胆させられることがある。

以下の二つは多くの場合、差を認識した上で考えなければ、作品の評価はできないのだと思う。

  1. 流行の雰囲気を楽しむこと
    • 例)周りのゲーム仲間と意識を共有することで満足感を得る
    • 例)酒の席を盛り上げることで楽しむ
  2. ゲームプレイヤーとして、遊ぶ楽しさを追求すること
    • 例)ストーリーに没入する
    • 例)自分なりに高得点を狙う

世間で面白いとされているゲーム、知名度の高いゲームなどは、ほとんどが雰囲気で楽しむものであって、実は一ゲームプレイヤーとして楽しめるかどうかということとは必ずしも合致しない。

試しに“このゲームは○○だから面白い!”なんてどこの誰の視点で語ったものやら分からん風説を除いた上で、多くの人間に遊ばせてみると、実際にそのゲームを面白いと感じる層と、そうでない層が、風説を取り除く前よりも、業界の平均に近づく形で分かれるんじゃなかろうか(試せないので証明することは難しいけど)。

まぁ所詮は他人の評価、自分とは違う人間が語っているという前提を忘れてはいけない、ということですな。掲示板の投稿ひとつとっても、書くことが目的になっている文章、酷評することが目的になっている文章、雰囲気に流され浮かれながら書いている文章など様々なのだ。その後ろにいるものは常に人間だから、こうして駄文を積み重ねている自分の存在を思えば、他人の文章だって、本気で捉えていいものが得られるとは限らない。

ゲームの評価というものは、巷に溢れているようでありながら、読み手にとっての真実を突いたものってほとんどないんだろう。どれも遊んでみるまで分からん、が正解かな。

だけど肝心の問題は自作品の評価なのだ。自作品の見かた見せかた。これが難しい。避けることのできない情報だし、他人の話に流されすぎてもいけないし。私などは、前述の理由から他人の言葉は文字通り“他者の言葉”として一線を引いて聞くようにしてるんだけど、自分の評価は、実はもっと信用していない。信用に値する情報源がこの世に存在しないのである。かなり困っている。