『魔人竜生誕』攻略後の感想
『魔人竜生誕』をひとまわりぶん攻略した。
前回の記事は「『魔人竜生誕』をプレイするも難易度高し」http://d.hatena.ne.jp/kumashige/20070820/1187537473へ。
以下は攻略後の記事として。
久しぶりにゲームの感想を書いたら長文になってしまった。
総合
とても楽しかった。
とりわけ結末にいい印象を受けた。私が攻略したのは緑ルート。マルチエンディングのようだ。
ゲーム的な部分はちょっとした研究を要し、ナメてかかっていたためにひどい目にあった。戦術を考えながら攻略していく必要があるが、この点は無茶をやらず普通の出来ではないかと思う。
ゲームブックとしては、日本人プレイヤーに配慮してあるバランスの良いゲームだと思う。
ゲーム性が存在するゲームで普通に遊べるというのは、とても重要なことではなかろうか。昔は理不尽な難易度を持つゲームが多かったから。
ストーリーがやや大人向け
なんとなんと、いやはや、こいつは大人向け(高校生以上向け)のゲームブックですな。私が遊んで面白い。
舞台は現代日本で、主人公は独身の社会人男、自宅が仕事場になっているという設定だ。ひょんなことから超人的な力を身につけて、悪と戦う(影の)ヒーローになってしまう。
久しぶりに好みのノベルゲームを遊んだ感じ。これなら標準的なパソコン用の文章ものゲームを遊ぶより楽しめるかも。終わったときに心に残る作品というものは、少なくともパソコンでは6年くらい遊んでない。
何が良かったか。うまく表現できないけど、一般的な人間の情感や、素朴なやりとりといったものが表現されていて、それがエンディングに効いてくるのがいいのだと思う。けれんみがなくて、普通の優しさがあって、ひたすらシリアスな世界に、さりげなくこっ恥ずかしい愛が漂っているのを感じたとき、先のストーリーをもっと読みたくなるのだ。そして読み終わったとき、なんと儚く幸せな物語だったんだ、と気づいて、不覚にも嬉しくなるのだ。本の表紙を見てもあのエンディングは想像できないから、ますます効いてくる。
ひとたび攻略方法を憶えたあとは、プレイ時間があっという間だった。
ストーリーは小学生には向かないかも
小学生プレイヤーはいい反応を返さないかもしれない。
(これは、私が緑ルートを通ったためにそう感じたのかもしれない)
とりわけ零細企業に勤める独身男が日常を営みつつ敵を倒していく、というバックグラウンドが、子供の興味にどう影響するか、といったところだろう。それと登場人物たちの真面目な大人ぶりが気になる。
昔、『暗黒教団の陰謀』(クトゥルフもの)という現実的なアメリカ社会を舞台にしたゲームブックがあったが、ナントカ大学とかナントカ博士とか、お堅すぎて子供にとってどうでもいいと思える要素が出てくるたびにゲームとの距離感を感じた。それと似た感覚を持つかもしれない。大学の博士よりも、露出狂の変態と会うことを好むのが子供だ。さもなくば、はやく悪魔の根城に潜入したいのだ。
大人の世界を見せるなら『こち亀』みたいな見せ方をした方が、子供に受け容れて貰えるかもしれない。あれは非現実的だけど、子供は親しみやすい。ちょっとバカで(面白くて)優しい大人を受け容れるのが子供だと思う。
鈴木直人やS・ジャクソンが描く脇役の大人たちは、一部がおちゃらけた一面を見せたり、悪役であれば欲望をあからさまに見せたあとで主人公に恥をかかされるというオチがつく。私が小中学生の時は、ちょっと変なところのある大人たちの言動と結末を、友だちと笑いの種にしたものだ。それ以外の存在は、言葉もろくに語れぬモンスターだった(モンスターについては「倒した」「弱かった」という言葉で会話が構成されるから、今回の話題からはちょっと外れる)。
『魔人竜生誕』の脇役の大人たちは普通というか、我々のような一般人ばかりになっている。つまり、我々の知る普通の世界をあえて使ったようだ。プレイヤーが大人になればこの方が安心して読めるのかもしれない。だけど小学生は、そういう真面目で特徴のない大人を読み飛ばすんじゃないか。
記憶の限りでは唯一、「草度社の酒林さん」だけはそれっぽいネタキャラになっていた。あれは良い感じだ。ああいう傾向を保ちつつ、もう一歩ハズれた大人を増やすと面白そう。たとえば自称秋葉系オタクが、その辺の道をコスプレしながら歩いているとか。そいつが実は凄腕の技術者だったり、主人公に好意的なIT企業の社長だったりするのだ。
ゲーム性は可もなく不可もなし
こう言ってしまっては身も蓋もないが、私にはゲーム的な部分が「普通」に思えた。特筆すべき良いところも、悪いところも感じられない。興味が主人公周りのストーリーに傾いていたからだ。
内容はというと、ノリが勧善懲悪の特撮テレビ番組になっている。
どの戦いにおいても、考えながら戦いを進めていく必要がある。ぬるま湯を期待するプレイヤーにはピリッと辛口だと思う。
しっかりとゲーム性が盛り込まれている点は、昔のゲームブックのように子供向けだが、昔のゲームブックにはないノリがあって斬新に感じた。ただ、この斬新さは、私には特別いいと思わせるものではなかった。悪いとも思わなかった。
私は導入時のストーリー展開を見て、PC向けのノベルもののノリを感じてしまい、ゲーム性の高いゲームであることを忘れてしまった。おかげで序盤の戦闘で何も考えずに戦って、なんども返り討ちにあった。いやはや、これはまさにゲームブックだったのだな。忘れていた。数値効率を考えて、バトルをなるべく有利な条件でクリアする必要がある。
攻略方法を知ったあとは、特に問題もなく攻略していった。
先に「特撮テレビ番組」と書いたが、バトルの引き金を引く展開は単調だった。『魔人竜生誕』は露骨なテレビ番組仕様になっていて、ゲームの中でも一週間おきに出現する「次の怪物」と、一対一で戦う仕様になっている。ゲーム中の主人公は普通の社会人を続けており、どこかの荒野や地下道を「冒険」しているわけではない。一週間おきに人の住む町で事件が起きるようになっているのだ。一貫してそうなっていて、展開的には「お約束」が重視され「ひねり」を入れていない。
その点、ひたすら主人公周りのストーリーを追いかけていた私にはあまり気にならなかったが、昔のゲームブックらしい冒険的な展開を求める人にはウケが悪いと思う。
理不尽な分岐は見あたらない。大きなダメージが予想される場所では、回避するためのヒントがそれとなく事前に出現する。この点、国産らしいゲームに仕上がっていると思う。文章をどんどん読み飛ばしてしまうプレイヤーは、間違いなく苦労する。
ギャルゲ好き向きじゃない
さて、少女との同棲ルートを突破した私としては、この点も書いておこう。ギャルゲを好む読者が多いことが分かっているので*1。良く考えてみたら、私がギャルゲ以外の感想らしきものを、ここまで長々と書くのは初めてじゃないか。
『魔人竜生誕』はギャルゲという世界を特別視して好む人には向かない。『魔人竜生誕』の素朴なキャラクタ表現は、欲望を満たすための表現にはなっていないのだ。目前の少女が、単刀直入に照れたり、笑わせてくれたり、泣かせてくれたり、そういうことが目当ての人は、たぶんパソコン用の美少女ノベルを遊んだ方がいいのだろう(すべての美少女ものが全部そういう機能を持っているわけじゃないけど)。
美少女キャラクタが永遠にプレイヤーの奴隷でいることが保証されていないと、萌えの世界は成立しない。美少女キャラクタが飛び込もうとする先は、常にプレイヤーの胸の中だ。美少女キャラクタは物語の道具ではなく、プレイヤーの欲を満たす人形なのだ。
『魔人竜生誕』とギャルゲ(萌えを特別視すること)では、そういう決定的な違いを感じたというか。
『魔人竜生誕』を気に入った人はたぶん、別の分岐(少女が相手ではない分岐)も読みたくなる。
ギャルゲとか、ゲームブックとか、普段からそういったカテゴライズを意識しない人なら楽しめるんじゃなかろうか。
*1:当雑記の読者にはなぜか、ダンジョンクルセイダーズ体験版や御神楽少女探偵団の記事を読みに来る人が多い。圧倒的と言っていい。しかし、なぜスカーレットに来る人は少ないのだろう……