分岐か一本道か

他人には意味がないかもしれないが、どこかでまとめてみたい。まとめたいけど難しい。

ゲームにおける選択肢のあり様について、あるいは一本道の解釈について語った記事です。私自身のエントリを読むより、元の記事の方が実があるのでどうかよろしく。

記事そのものは結構前に見つけたんですが、手元ではうまく書けなくて保留してきました。感じたことを書いただけの文章のまま投げてみるのです。

この一連の記事、私はひとまず、そのまま解釈してみたいですだ。

以下はコンピュータRPG中心の話に移行します。


分岐か一本か、は文章的ストーリーに限った話じゃない。

私たちが作るPC向けRPGシステムには必ず選択制限がつきまとう。特に、私が作っているものはエディットシステムであるから狭めるという発想は少なめで、これまではシステムを、「いかにシンプルに選択肢を広げるか」という観念に基づいて作ってきた。

だが選択の幅を広げることは必ずしも正義ではなく、きちんと考えた上で広げるか狭めるか、広げるなら何を広げ、狭めるなら何を狭めるか考えて作らねばならない。これまで考えていたより、ずっと「選択肢を狭めること」の価値が高い可能性があることを、あらためて見直さねばならない。

もともとPCゲームには選択肢が少ないのが当たり前だった。相対的に、アナログ的ゲームに比べればどうしようもないほど分かりやすい分岐になってしまう。右か、左か、隠し扉を探すか。

アナログで語れば類似の選択は、お風呂にする?ご飯にする?それとも……?並みの門切り型選択肢を盛り込んでおしまいなわけだ。金魚に餌をやる、ジョギングに行くという選択肢は、アナログ本来的には選べるはずなのに、デジタルなお父さんには用意できない。分かりやすい三択を使って、いかにゲームらしさを出すか。デジタル人はそこにゲーム性を求めるしかない。それは作り手にとって作りづらいもの……のはずだった。

この制限の強さゆえ、これまでPCやファミコンのゲームには「自由度がないのは欠点だ」というレッテルを貼ってしまっていた。選択肢は広ければ広いほどいいのだと勝手に決めつけていた。

しかし人類の進歩を顧みれば、それは逆の可能性があることが分かる。まずD&D(テーブルトーク)が生まれ、広すぎる選択肢を狭めるためにジャクソンがファイティングファンタジーゲームブック)を作った。その後、ファミコンのRPGが日本中を席巻するわけだ。

時代が進むにつれ、選択肢がどんどん狭くなってきたのだ。この「進化」があるたびに界隈の人口が増えていった。

ところが近年になって、最近のゲームにはゲーム性がないと嘆き、選択肢だの自由度だのを広げるよう求めているのはオッサンばかり、そう我々の世代だ。

いま我々は巨大なメモリと豊富なCPUパワーに恵まれ、再び選択肢を広げるチャンスが到来している。だが、それすべて歓迎すべしといたずらに選択肢を広げることが「進化」に繋がるとは限らない。いや厳密には、選べる道の多い少ないでゲーム性を見ることが、すでに了見を狭めている。そう気づいた方が楽に楽しい作品を作れる、という結論が私には想像できるのだ。

それは何も、進化か退化か、という漠然とした話にとどまるわけではない。実践的な課題が多くそびえているからこそ、今日あらためて「分岐と一本道」について考えるべきなのだ。これまで私が実感してきた苦労の多くが、選択肢の無秩序な豊富さからもたらされている。

というわけで一旦ここまで。

ぜんぜん書けてない。選択肢というのは様々な場所に適用できる概念なので、考えることが多い。