クソゲーとはなんぞや

本日、クソゲーネタ三発めです。申し訳ありませんがもう一度だけ、クソの上塗りをさせてください。

三発目では、皆さんの記述を読ませていただきました。

みんなが手放したくないから定義できない

「難易度が高い=クソゲーという方程式は見直さなければならない」については、私には方程式があるという実感がありませんでしたが、もし一般に誤解があるとすれば見方の問題ということも言えそうです。高い難易度に挑戦する意欲を植え付けてくれるゲームなら、体感的な難易度が下がり「難易度が高い」という評価そのものが生まれにくい。そういう見方もできそうです。

つまらなくて途中で投げ出したゲームに対し、難易度が高くてクリアできないとダメ出しをするのか、難易度が高いからつまらないゲームなのか。卵が先か鶏が先かの輪廻はこの手の話に多そうです。

元記事にあるとおり、クソゲーは確かに個人定義に依存しています。友達とクソゲー話をするときは決まって楽しかった記憶があります。決めつけで語るほど、会話が不毛なほど楽しい。対照的に、抽象的な結論が見えているとつまらない。だからクソゲーとはなんぞや、なんて切り口で語ったことなど一度もない。すべて個人定義から入る。そうでなければ言葉自体を使いません。

クソゲーは友達と会話を楽しむために形を変えて用いるローカル造語であって、世界のゲーム基準を定めるために作られた言葉ではないのだと思います。だから言葉の定義にケリが付く頃にはつまらなくなって、誰も使わない言葉になっているかもしれません。そのときにはクソゲーに変わる新しい造語が生まれて、今と同じように意味不明なまま使われ続けるのかも。やはりクズゲーとかそんな感じだろうか。

しかし、本日最初のエントリで述べたとおり、クソゲーという言葉は語呂がよく、感情を言葉にする際、気持ちよく都合のいい使い方ができてしまう。みんなこの言葉が大好きなので、定義を誰かに譲ることを許しません。結果、「クソゲーという言葉の楽しい利用権」はこれから先しばらくの間、放棄されないため、たとえ言語学者でも定義しがたい状況が続くと思います。

もちろん、私はまだまだクソゲーを使いたいので、定義しなくていい!されてたまるか。このまま個人管理でよろしくみなさん。

FF8はクソゲーではないのです!(筆者の定義)

こちらも同じような結論が綴られています。FF8がクソゲーであるか、という議論がそこかしこで行われているという一点を見ただけで、この概念を考察することが不毛だということがよく分かります。「静かなブームはブームなのか」というテーマに通じるものがありますな。

FF8は、私がやり込んだのでクソゲーじゃありません。PS時代はクソゲーだと思ってました。それなのにPC版を買った上、PCで遊んだら楽しかった。クソゲー兼名作といったところです。

ゲームを求める目的が多様だから定義がない

あなたのクソゲーの定義、という見出しに釣られて。

ご意見の中に「クリアしたあとにやることが無くなりクソゲー化する」という内容があってちょっとビックリしています。「ゼルダの伝説」のような長丁場を遊びきったのにクソゲーってどういうこと!?と、あらためて個人定義というものには、人の数だけ違いがあるのだと思わされる。

中には「口で言い表せない中毒性がある」というご意見も。中毒性が元でクソゲー扱いしてしまう人もおられるようです。なるほど、さまざまな考え方がございますな。

原則の面で揺るぎがたいご意見と感じたのが「娯楽としての機能を果していない」です。娯楽として金を払ったのに、それが満たされなければ罵倒したくなるのも当然です。ただ私、純粋に娯楽時間を過ごすためにゲームを求めることが多かったかと思い起こすと、実はそうではないことに気づきます。

私が考えたゲームを求める理由の大部分は、友達との繋がりです。話題を共有する目的があったり、信頼できる人から勧められたり、面白いゲームを発掘することが目的だったり、流行っているものを手に入れて自慢したいという動機もあったと思います。今日では雑記の記事にするという目的もあります。そう考えると、ゲームを個人の娯楽時間の糧にする目的で求めることは少ないです。リンク元は個人に限定した話になっていますが、ゲームが個人の娯楽時間を満たす道具とする説明は、個人の視点からも、そしてビジネスの視点からも、現代ではカバーしきれていないので、大衆定義には結びつきません。

ゲームを求める目的が多様であることが、クソゲー定義が人ごとに違って見えてしまう理由なのかもしれませんね。

細かな条件を設けず、定義を抽象化すべし

ウィキペディアについてはさしずめ、どこかの代表者がまとめた「ゲーマーの意見集」といったところでしょうか。消費者の一次感想集としては参考になりそうですが、大衆参加型の百科事典ではこれが限界かもしれません。

操作性が悪いから、バグがあるからといった個別の条件を列挙すれば、一つ一つにアンチテーゼが生まれ、定義が埋没するような気がいたします。議論を進めるほど中性化してしまい、クソゲーの条件を満たすものほど「普通のゲームである」というパラドックスを生みかねません。

私はあえて、筆者の主観を交えつつ、より抽象的にまとめるクソゲー定義をすることを提唱いたします。もともと国語辞典や百科事典は、主観が完全に排された資料ではありません。大衆意見の突き合わせで精度を高めることが難しいテーマもあります。現状のクソゲー定義は、個人の立場や時代の流動性などの障害に阻まれて、事例を集めるほど単一の着地点を探すことが難しくなっています。

将来、ごく少数の参加者がまとめた資料が様々な集団から提示されたとき、はじめて客観的な合意が見えてくると思います。そのときはおそらく、操作性が悪いからクソゲーなどといった矮小化した単位で語ることはないと思います。仮に操作性が問題になるなら、操作性の定義について成熟した議論をすることが先になり、クソゲーについて語ることができないので、より抽象化した水準で決着をつけようという動きが主力となるはずです。

現状は、クソゲー定義という名のもと、ゲームプレイヤーの愚痴をまとめた一次感想文集の枠を出ない資料しか見あたりません。話の契機に持ち寄るものとしては面白いのですが、定義に至る条件を個別に処理しようとする限り、特定のゲームに対する感想文やブレインストーミングの域を出ることはないと思います。

あらためてになりますが、クソゲーの定義については主観を交える覚悟で、広域的な枠に浮上させるのが良いと思います。


よーし、クソゲーの概念を未来につなぐ提言をしてみたぞ!孫の代が楽しみだ!