話をする人による差異(命の話)

妹が家に帰ってきているので、積もる話をしている。

あ、余っていた養命酒は、妹が家に持ち帰ることに。

ただし、開封してからかなり時間が過ぎており、飲んで腹壊しても知らないよ………とは教えていないが。まぁ万が一の時でも、勤務先が病院だから大丈夫だろう。看護師なら独断で勝手にクスリを持ち出しても(だめです)。


私の妹は看護師であるため、話に鬱が入っていることが多いのだが、何かとオチがつくため話が面白い。

最初に聞かされたのは、過去にも来院したことのあるS女とM男のカップルがふたたび来院した話だった。虐待されたM男に付けられたいくつかの切り傷を医師が縫っている最中に、付き添いのS女が病院内で暴れてものを投げ始めたので、警察を呼んだところ盾を構えた完全武装の機動隊が押し寄せてきて驚いた、というものだった。いや、テロが起きたわけじゃないんだけどね…と。

説明の仕方って重要ですねぇ。通報したのは私の妹だそうですが。

そもそも、私が聞いた上の話も、まったく誇張が入っていないとはいいきれない。妹は“慌てちゃうとうまく説明できないんだよねー。あはははは”と快活に喋っていたが。


一方、私の母はホームヘルパー、つまり介護の仕事をしており、ことあるごとに普段から老人に関する悲惨な話を私に聞かせてくる。こちらは救いようのない話ばかりでオチもなく、ただひたすら“人生の終わり方”を教えてくれるばかりなので、毎日があまりにも明るいことばかりで、たまにはこの世に絶望してみたいと考えている人は耳を傾けると良い。

だいたいいつもこんな流れ。

  • 母「家族の顔も名前も分からなくなって、ベッドや椅子の上で虚ろにぼーっとしているだけの毎日があるだけじゃ、長く生き続けるより、早く死なせてあげた方がいいよ!」
  • 私「なるほど。つまり、体も脳も自由の利かなくなった老人は殺した方がいいと?」
  • 母「殺すんじゃなくてさぁ……だから、長生きさせない方が本人にとって幸せってことだよ!」
  • 私「つまり、殺すんだろ?」
  • 母「そうじゃなくて、そうじゃなくてさ、早く死なせてあげられるような世の中にした方が…」
  • 私「結局、殺すってことだろ?」
  • 母「家族の同意を得て、延命の措置をとらない判断をすることも時には必要ってこと!」
  • 私「なるほど。見殺しにするわけか」

別に世の中が“安楽死”や“尊厳死”なるものを受け容れるようにしたい、という考えを個人で持つことは一向にかまわないと思うんだけど。安易に口にできない空気があるのかもしれませんな。もちろん老人や介護している家族の前で話をすることがタブーであるということは分かるけど……ね。

だけど、表現が気にくわないからと隠しながら、やんわりと、穏便に話を進めて、動かなくなって物言わぬ患者を前に、最後には結局“みんなの同意を得て見殺しにする”ことが普及していくべきだと主張しているわけで。私にはそのように“そーっと進める”ことの方が後ろめたさが強烈に感じられて、狡猾で残忍に思えますがねぇ。

老人の耳の届かないところでコッソリ打ち合わせをして、みんなで神妙な顔をしながら「…や、やりますよ…」と言って延命装置の電源をオフにする姿が目に浮かぶんだけど、実際にはどんな感じなんだろう。はたして健全なのかどうか。後ろめたさばかりが印象に残って、将来が暗いものに感じられる。

世に理解を広めて、法的整備を進めるためにははっきりと発言しないとラチがあかないんじゃないでしょうか。介護や医療に携わる人たちには、己の考えを語る勇気を持って欲しいですな(患者一個人に対してではなく、世に対して)。周囲の目を気にしながらおどおどしている人間に、自分の最期を任せられますか。


妹が死者のことを喋ると“今日なんか三人も死んだんだよ三人も!ホント疲れちゃったよー!まぁ残念ではあるけど、高齢のお爺さんお婆さんは仕方がないよねー誰しも死ぬんだし”とあっけらかんとしている。看護師とホームヘルパーの違いなのか、性格の違いなのか。

両者とも“人間の終末”を口にしている点では共通しているわけだが、話し手によりかくも話の矛先が変わるものなのか、と考えさせられる。