けまらしいは素晴らしい

他人が仲良くしているところを見て不快な気持ちを抱くことを「けまらしい」というらしい。ちょっと古い語のようだ。ジョーク語とはいえうまい造語だなと思って感心してしまった。

なぜ、けまらしいのか

言葉を作りたくなるのは自然の流れかもしれない。インターネットが普及し、情報流通が速くなって、意思疎通の器用な人間やある分野において技能の高い人間を、人々がたくさん目にするようになった。その結果、自己嫌悪するくらいコンプレックスを感じる人が増えたんだろう。

多くの人は、あの人よりモテたい、自分の価値観が他人に認められたいという欲求を少なからず持っている。そこを底にして、負の感情がたくさん生まれているのだ。自分よりうまく立ち回っている人たちや、自分たちより賑やかな集団を見ると、それを否定するか、自分の価値観が埋もれないよう強調しようと頑張る。その頑張り(必死さ)はきっと、「けまらしい」感情から生まれているに違いない。

「けまらしさ」は昔からあった感情なんだろうけど、今よりも実感することが少なかったに違いない。ネットの世界を通じて露わになった日本人の本音の一つなんだろう。

「妬ましい」と同じだけど、そこが良い

この「けまらしい」は、「妬ましい」とは意味が違うんだろうか。私には同じに見える。他人同士が仲良くしているさまを見て、疎外感を感じたときに受ける妬みなんだろうなと。

妬ましいと言ってしまうと、人にとって(とりわけ日本社会にとって?)あまりいいことではない。聞こえが良くない。みっともない。そう世間にとられてしまう。その結果本人は、自分の弱さを露呈した感じがして不快な気持ちになる。小人と思われかねない本音がばれることを、日本人はかなり嫌う。だから「けまらしい」というえん曲表現を使ってみよう、という情の流れがくみ取れる。

その「妬ましい」に通じる言葉として「けまらしい」を聞いたとき、耳に触れたときの韻も似ているので、「うまい」と思わず手を叩きたくなってしまうのだろう。なるほど。

とりあえず国語辞典に追加するしかない。

潔い方がかっこ悪くないかもしれない

負の感情は正の裏返しでもある。中にはそのコンプレックスを、努力と実績に変える人もいるだろう。でもほとんどの人は、そういう良い方向には頑張れない。そして、そのことを口にすることも怖くてできない。

たいていの人は「けまらしい」なんて言わず、遠回しに敵対価値を貶めたり、自分の価値観が世間に認められていることを示す証拠を頑張って探してきてアピールする。私にはそう見える。一凡人たる我が人生を振り返ってもそう思う。

けれど、そんなことをするなら「妬ましい」「けまらしい」と言い切った方が潔く「普通の人」であることをアピールできるかもしれない。そういう時代が来るんだろうか。