爆笑されたらしい海猿

海猿』がニューヨークでなぜか爆笑される!
http://www.cinematoday.jp/page/N0008724

最新の『海猿』映画。日本人が号泣するシーンが米国人には爆笑ものだったという話。

実際の笑いのニュアンスがどのようなものであったかは記事からは読み取れないけれど、日本人の感覚も米国人の感覚も、相手の国の価値観には互いにおかしいと思えるポイントを見いだしてしまうというのはよくあること。日本人と米国人はこれでもまだ近い方だと思う。

だけどこういう話を聞くたびに、特定層の人が「いいよこれ!」と手放しに褒める感覚がいかにいい加減な評価であることが多いかを思い知らされる。『海猿』のようなヒット作にさえその皮肉を投げかけているようで楽しい。

映画に限らず、激しく情動をわななかせている人を見ているとなだめたくなるのだ。「そうですか面白かったですか。素晴らしかったですか。それは良かったですね。好きになることはいいことです。よく分かりました」と遠回しに。

でも心の中では“別に飛び上がって褒めるほどのものじゃない。来月になれば別の価値観がメディアにおどるんだから”と冷静に捉えていたり。逆に言えば、自分も同じように飛び上がって何かを褒めたり喜びを表現したときにはそう思われている。

誰かにとって素晴らしい作品が登場することはとても素晴らしいことで、かつ一歩足を外に踏み出せばたいした価値はないわけだ。

該当のシーンだって作っている側は真剣に泣かせようとしているのだろうし。真剣に「泣かせてやろう!」と思い制作して、真剣に「泣ける!」と評価する人が続出したあと、対象層を変えた途端に大爆笑。いいねぇ。どれも真実なわけですよ。

ま、世の中そういうものってことで。

創作の世界は踊らせる人も踊らされる人も、どちらを観察しても面白い。そしてどちらに自分がなったとしても楽しいものだ。たとえ期待はずれの方向でも皮肉だらけでもいい、幾ばくかの情動のうねりを創り出すことにこそ創作の価値、存在意義があるのだろうなとこの一件から考えさせられた。