5.廃れた理由
ゲームブックがなぜ廃れていったのか、その原因を考察したサイトが結構あるようだ。ゲームブックを遊んだすべての人が、その趣味から一時的にせよ手を引いたわけで、そのあっけない終焉に少なからず思いを馳せる人は少なくないのだろう。
私が最後に手にしたゲームブックは、今でもよく覚えている。『ネバーランドのカボチャ男』(林友彦著)だ。今でもカバーをかけたまま、比較的綺麗な状態で保存してある。この作品をプレイせずに、時事上ゲームブックから手を引いた形になる。
私は一ファンであり、業界の命運を担っているわけではないし、今さら復興する世界だとも思っていないので、議論まではするつもりはないのだが、小中学生の視点に立ってみれば、本を手にとらなくなった原因は“活字が持つ魅力の薄さ”に他ならないと感じる。相対的に、コンピュータゲームやエロ本(ビデオ)に劣るのだ。勉強と同じで、興味を引かれるものが他にあれば文字だらけのゲームブックなど優先したいと思わなくなるものだ。
ソーサリーにせよ、ドルアーガにせよ、ゲームブックは高難易度のものが硬派好きの子供たちに受けて、ブームとなった経緯がある。だからゲームブックは、もともとストイックな遊びだ。そこへ少ない労で高い快感を得ることのできるゲーム機やパソコン通信、インターネットが普及すれば、当然そちらに人は流れる。子供たちは、新しいものに興味を持つ傾向がある。今時MS-DOSを利用する人がいないのと同じことで、活字そのものが廃れていくのは当然のことだ。
もちろん、勉強好きの小学生が存在するように、ゲームブック好きの子供もそれなりに生き残っていたはずだ。すべての人から興味が潰えたわけではないと思う。
粗製濫造を原因に挙げている人もいるようだが、もちろん、粗製濫造の中に良作がなければ子供たちは興味を失う。だが、コンピュータゲームだって映画だってテレビ番組だって、できの悪いものなど沢山あるが、絶滅していない。
もし作品の良し悪しが影響しているとすれば、粗製濫造そのものが原因ではなく、良作を創出する作家がいなくなったことが原因と見るべきだろう。
テーブルトークはなぜ細く長く、そして一部に熱く語り継がれているか。テーブルトークはゲームブックと違い、ゲームマスター(GM)が事実上のルールブックであり、シナリオライタであり、映画監督になっている。中身の大部分を提供する責任を、プレイする人間の一人であるGMが担う。GMは世界中にあまたおり、それぞれがいいと信じる世界をプレイヤー、もしくは別のGM候補に語り継ぐ。そして、仮に飽きてルールブックを捨てたとしても、別のGMが新しい世界を構築していく。
だが、ゲームブックは違う。創造・演出のすべてを、作家が担う。作家が尽きたら供給源が途絶えるのだ。粗製品がいくら出回っても小中学生は一向に気にしないが、良作を輩出する作家がいなくなったらおしまいだ。
- 子供たちの興味が、主にコンピュータゲームに移ったこと
- 良作を書く作家がいなくなったこと
衰退の原因は、この二点だと私は考えている。
以下は、衰退の原因というよりも、壊滅を防ぐ上での問題というか。
上記の他に、現在の復刻版は単価の問題を抱えていると思う。これはぜひ専門家に分析をお願いしたい所だ。
昔の著名作品の大半は文庫だった。素人目に見ても明らかに薄利多売の世界。数が出なければペイできず。そんな状況で現代の復刻がかなうはずもなく、実際に単価が高くなる形で復刻されている。
最低八百円、少し規模が大きくなると千円以上、シリーズで五千円になるゲームブックの世界が、小学生に受け入れられるはずがないから、復刻版は懐古を求める大人向けに販売されたものと解釈している。媒体を新鮮なものとして受け入れて、ゲームを純粋にゲームとして楽しむ“遊ぶべくして遊ぶ世代”が購入していないのだから、後の世代がついてきていないという点では、今でもまったく変わっていない。私が死ねば、買う人間もいなくなるわけだから、このままいけばゲームブックの歴史はあと五十年で完全に幕を閉じるわけだ。
- 大人向けに、現在の規模のまま高額商品を揃える
- 子供向けに、安価に大量に売りさばいて市場拡大を狙う
二十台後半から三十台前半を相手に商売しているうちはまだ1が成り立っていられるが、いずれ復刻作品は底をつく。となれば、新作を出すしかない。だが、誰を相手に商売をすべきだろう。ここが問題だ。
私が六十歳になってまで、私と同じ世代の懐古主義者にゲームブックを売り続けられるだろうか。いやもっと現実的に、四十歳になればいくら復刻復刻と持ち出されても、買わない当該世代も出てくるものと思う。そうなれば、1だって危うい。
結局、2が達成できなければジリ貧に陥っていく可能性が高いと思う。基本的に当時の形のゲームブックは「子供向けのゲーム」である。その根本を忘れてはならないのだ。
大人向けと子供向け、路線を分ける作戦もあろうが、それはまた別の話になる。少なくとも、ソーサリーに似通わせた新作を四十歳、五十歳のおじさんに売り続けられるとは思えないからだ。
基本的に私は、本の媒体まま、単独で存続させていくことはできないと考えている。今しばらくは復刻という形のみで商売が可能だろうが、いずれ世代が復刻でさえも受け入れない体質に変化していくと思う。