ゲーセンで燃えない男

子供の頃、ゲームセンターに行きたくて仕方がなかった記憶がある。だが、私は出入りさせて貰えなかった。

年に一度、正月になると母の実家に泊まりに行く行事があるのだが、そのとき祖母にデパートのゲームコーナーに連れて行って貰うのが関の山。それも二百円くらいのお金を十円玉に分けて、十〜二十円のゲームばかりを遊んでいた。

未成年のうちは、「盛り場だから」という理由でゲームセンターへの出入りを禁じられていたのだ。私は律儀に親の指示を守っていたのだが、その背景には、楽しく遊べるだけの小遣いが与えられていないこともあった。だから「ファミコンなら何回遊んでタダじゃん。ゲーセンなんて金かかるばかり」などとイイワケがましくカッコつけて、友達の誘いを断っていた。

ところが、そのファミコンも実は週二日しか許可されておらず、それも一日二時間までという制限が付けられていたから、まさに負け犬の言葉にしかならなかった*1。おかげでRPGのコンプリートが友達よりも圧倒的に遅かったり、アクションゲームが下手で、交代しながらゲームを遊んだときにはいつもあっという間に自分の番が過ぎてしまったりと、さんざんなゲームライフを送っていたわけだが………。残念なことに、ゲームを抑圧されていたことが、重圧となり、後年、いいことわるいこと、様々な現象をもたらすことになる。

一つには、ゲームを短い時間の間に集中して訓練し、腕を高める癖はついた気がする。あくまでファミコンのコントローラーを握ったときだけだが、遊べる間に徹底して遊びこむ。十時間与えられれば十時間集中して遊ぶ。周囲もあきれるくらい、のめり込むときはのめり込む癖が付いた。今遊ばなければ、後ははない。その思いが、自分をゲームに向かわせるのだ。ただし、家庭用ゲーム機やパソコンに向かったときだけだが。

私だけでなく、これが弟にも属性として付加されてしまったからタチが悪い。弟は私よりもはるかにヘビーゲーマーとなった。学生になってからはゲーセンに入り浸り、昨今ではオンラインゲームにもハマって、すでにウルティマオンラインだけで五年。親の思いとは裏腹に、抑制した結果がかえってヘビーゲーマーの兄弟を生み出してしまうことになった。

私はどうかというと、後年、ぶじ経済力を付けたあと、ゲーセンに自由に出入りできる身分になったわけだが、その時にはすでにゲーセンに対する興味を失っていた。最近ではもはや、ゲーマーとは呼べなくなっている。他人のプレイを見ることは好きだが、遊ぶことはない。カラオケと同じである。


社会人になってからは、ゲーセンに誘われて遊びに行っても、自分で遊ぶことはなくなった。「お金を出してゲームを遊ぶと破滅する」「見ず知らずの人の前でゲームをやるなど、不良のすることだ(恥ずべきことだ)」という思いが残っているのだ。

ところが後日、ゲーセンに対する世間の目が変わっていることに驚く。よもやゲーセンに集う不良たちの存在など化石であり(私が子供の頃からすでにゲーセンはだいぶクリーンな環境にあったが、親に先入観を植え込まれていた)、女性だってゲーセンで遊ぶ。社会人になってから、数名の先輩女性からこぞってゲーセンに誘われたときは驚いたものだ。

だが、時既に遅し。誰に誘われようと、ゲーセンに冷めた私は変わらない。見ている分には楽しいので、彼女らがガンシューティングDDR系のゲームで楽しむ間、じっと眺めているのだが、私は参加する気にならない。誘われても断る。結局、幼少より植え込まれた先入観が、「ゲーセンNG」を生み出しているのだ。

人付き合いに悪影響を及ぼしているのだから、ゲーセンは悪、などという考えそのものに誤りがあることは、これで証明されたわけである。


ゲーセンで遊ぶことは嫌いだが、見ることは好きであり、他の場所で遊ぶことはもっと好きで、ゲームを作ることはさらに好きである。子供の頃の「禁止」は将来に響く。弟のように抑圧から解放されたときに爆発を引き起こすか、私のようにぷちトラウマを残して避けるようになってしまうか。いずれにせよ、「悪いことは禁止せよ」という親の感覚は、必ずしもいい結果を残すとは限らないこと、私自身は覚えておきたいと思う。

*1:当時はファミコンも買ってもらえない、ゲーセンも禁止という家庭がそれなりにあったため、私の境遇はまだ恵まれている方である